行動規範

ずいちゃんです。

私は、迷ったり悩んだりしたときは、
必ずこう考えます。

「イエス様はどう行動するだろう??
 お釈迦様はどう考えるだろう??」

聖書や原書仏教の聖典を読みながら、
この時イエス様やお釈迦様は、何を考えていたのかな?と、
思いを巡らせるのです。

どう感じて、そしてこの言葉や行動が出たのかな?と。

すると、スーッと迷いが解けて、
1つの道に収束していくのを感じます。

私は凡人なので、100%理解できるはずもありませんが、
それらは大切な規範となって、私の内側にくさびを打ってくれます。

究極、目指す姿はあのお二方にほかなりませんし、
「祈るように生きる」という言葉を体現しているのは、
このお二人に他ならないからです。

ほかにも、尊敬している歴史上の人物はたくさんいます。

なかでもソクラテスが一番好きで、
最後の独杯を仰ぐ様は、私の中で1つの指針ともなる重要な心持です。

私は、レジスタンスではありません。
使命に燃える人間でもありません。
ただただ、心の幸福はどこから来るのか?を伝え、
一人でも多くの人に「楽」になってもらいたいだけです。
一番の欲は、そこにあるかもしれません。

そのために必要な環境や知恵は
おのずと私のもとに集まってくる。

そう信じて疑わなければ、
前回の記事のように「対価」がやってくるのです。

だからこそ、時々陥るネガティブな感情には、
注意深く接するようにしています。
その中に、もしかしたら今対処すべき真実が含まれていることがあるからです。

地震の予告なのか、大衆心理の不安なのか、
天候が悪化するのか、世界で何か好ましくないことが起こるのか。。。

何が起こるかはわからなくとも、そこにとらわれて苦しいときは、
「これは私のネガティブではない」と、
向き合い、そのネガティブに答えを与えるのです。

イエス様も、お釈迦様も、悪魔と対話しました。
悪魔と対話し、自らの軸をぶらすことなく、信念をつらぬきました。

彼らの信念は何か?

私には計り知れませんが、
その思いに触れるときに、必ず出てくるワードは「救済」です。

苦しみからの救済は、
とどのつまり3000年も前から提唱されてきた
人類全体に向けられた課題です。

そんな中、私に与えられた「祈るように生きる」という言葉は
非常な重みをもって、心にくさびを打ってくるのです。

結局、どんなにぶれても、どんなに沈んでも。
立ち返るのは「祈り」
そして、「祈り」とは信じること。

私がこの仕事を始めてから、
唯一ぶれることのない思いは。
私とかかわった人間は、
必ず道が開け、幸せになると「信じること」です。

残念ながら、私の仕事は視ていることしかできません。

様々な作用があったとしても、
それを受け止め、実行し、気づき、認知を上げて幸せになるのは、
ご本人でしかないからです。

ただ、頭打ちして苦しむ方々に対して、
寄り添うことはできます。
私は、決して、手を離さない。
必ず、そばにいて、見守る。
そして、どんなことがあっても、「変われる」と信じる。

自分の中にある信念は、まさにその一点のみかもしれません。

私は「信じて」いるのです。
心の底から、その人が幸せになれることを。
どんなに時間がかかっても、
どんなに苦労が伴っても。
必ず、安心して、幸せになれるということを。

自らの人生を、自らで責任を負うことで、
幸せは実現できる。
知っているからこそ、信じることができます。
どんなに時間がかかっても、
だれしもが「その場所」に到達できる、と。

そのために、できることをただ実行するのみなのです。

そして、提示してもやらない場合は、かわることはできないのです。
それは、その人の選択でしかなく、
私がどうにかできる問題でもありません。

だから、信じて祈るだけしかできないのです。

ただ、それだけが、
おのれの生きている意味につながっている。

だから私は、まだまだ踏ん張れるのだと確信しています。

なんて。
決意表明のような文章になってしまいました苦笑

改めて、おのれの存在を思い知った今日でございますw

そんなこんなで、今回は、この辺で。
お付き合い下さり、ありがとうございます。

zuihou.phoenix
  • zuihou.phoenix

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です