臨済宗 鎌倉円覚寺
ずいちゃんです!
とま、前回の余談で。。。
しらべますよね。

臨済宗といえば栄西が有名ですが、
この辺の仏教の歴史は大分あやふや。
ちょいと、自分の記憶とWikiを比べて、
歴史を紐解いてみましょう♪
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さてさて!
私の中での臨済宗は、
仏教の中でも口伝や秘伝が多く、
小乗仏教だから、表に情報があまり出てこず、
貴族や武士階級が進行していたため、
庶民になじみのないイメージがつよいのです。
よく、禅問答をやりつつも、
言葉での悟りを求めない、とか、
そういう「ハイソな学問肌で、若干、難しい」イメージがありますが。。。
これ以上わからないので、
こういう場合は、まずはWikiっす~ 臨済宗
ふむふむ。
Wikiによると・・・
臨済宗は、
中国禅宗の一派で、
鎌倉仏教の中心を担う集団であったようです。
そういえば、
中国禅宗でもう1つ日本に伝わっているのは曹洞宗
曹洞宗といえば、
鎌倉仏教で、小乗仏教で、開祖は道元で、
日本のお寺の中で一番寺数が多いお寺さんですね。
臨済宗のようなハイソな文化系とは違い、
「個人の悟りは個人で!」をモットーに、
己の身をもって悟りへと到達する「行」をメインとし、
誰でもウェルカムだったために、
民衆にも女性にまでも広まっていった、
いわば庶民派体育会系の仏教、といったところでしょうか。
只管打坐(しかんたざ)という、とにかく坐禅して悟れ!的な
シンプルかつ分かりやすい教義だった記憶があります。
とはいえ、道元和尚は栄西をとても尊敬していて、
「僧正様」とお呼びしていました。
これは、道元自らが記した『正法眼蔵』にも記されています。
もともと道元は、
栄西のいる建仁寺の同門で孫弟子でしたので、
これは当然かとおもわれます。
それに道元のような方をもって尊敬を集めるということは、
栄西もまた素晴らしい人物だったのだろうなぁと感じるのであります。
(実は昔、ずいちゃんは曹洞宗のお仕事をしたことがあるのです)
と、話がそれてしまいました(;^_^A
臨済宗に戻ります。
中国禅宗はもともと達磨和尚が開祖でして、
その6代後にあたる中国の臨済義玄が、
臨済宗の開祖なのだそうです。
だるま和尚って、
私たちにもなじみの深い、あの真っ赤な方ですw
あ、ちなみにだるま和尚はインド人ですw
日本人っぽいですが、日本人ではありません♪
案外知らない方、多いんですよね♪
んで、開祖臨済和尚の後、
中国は唐の時代の終わりごろに騒乱の時代に入ってしまったために、
9世紀末ごろ、一旦臨済宗はすたれてしまいます。
ですが、そのあと2人の天才により、
臨済宗は再び返り咲きます。
その2人というのが、黄龍と揚岐。
で、かの有名な栄西は黄龍派なのだそうです。
きっと中国で、
この2人の傑物が競い合って、
臨済宗は中国全土を
席巻していったのでしょうねぇ・・・(*´▽`*)
ロマンを感じますw
そういえば栄西は、
お茶を広めたことでも有名ですよねぇ~
お寺さんで茶事を行うことが多いのは、
このころからの習わしなのでしょうね。
さてさてさて。本題っと。
本題にある円覚寺派は、
中国から招かれた無学祖元により、
鎌倉で開かれたようです。
つまり、開祖は無学祖元ということですね。
さらにWikiを紐解くと、
この無学祖元、
どうやら栄西とは別の流派、
揚岐派の臨済宗のようです。
こちらの三浦七福神のいらっしゃる慈雲寺さんは、
その末寺ということですから、
栄西とは違った臨済宗を受け継いでいるということ。
そうかぁ。
こうやって紐解くと、
様々な歴史背景の中、
立ち上がったお寺が慈雲寺だったのだねぇ。。。
そういえば臨済宗は、
有名なお坊さんが多いのでも有名です。
一休さんも、沢庵和尚も、臨済宗です。
一休さんはとんちで有名ですが、
もともとは臨済宗の看話禅(かんなぜん)という、
師匠が弟子に問答をして悟りに導く、というやり方が
逸話になって広まったのだろうと思われます。
まぁ、ハイソな学術肌宗派ということもあり、
含蓄のある方が多かったのでしょう。
また、貴族階級からの出も多いはずですので、
お金もあったのだと思います。
臨済宗はお茶のほかにも、
書道や芸術、文芸などにも通じる傑物を多く輩出して、
鎌倉~室町文化の礎ともなっているのです。
そういった背景が、
有名なお坊さんを輩出する土台となっていたのだろうなと、
思わずにはいられません。
お寺の由来一つとっても、
調べるといろいろわかって面白いですねぇw